第三弾 ”有名”になることへの不安と葛藤 篇
有名になることにともなう葛藤
ーー「ツバサ」を出してからの1、2年は、経済的にも大きく変わっていったと思うのですが。環境が変わるなかで、メンバーとの関係に変化は出てきましたか?
さらにメンバーの結束は固くなりましたね。そしてつねに、早く次の作品を出したいって思ってました。
ーー『素晴らしき日常』を出すまでの間に起こったことで一番記憶に残っていることは何ですか?
「オールナイトニッポン」ですかね。決まったとき、周りがすごい達成感で満たされてる感じがありました。そんな中でも僕らはつねに次のことを考えていました。
ーーあの時代にオリコンの上位にランク・インするってすごいことですもんね。
一年間「オールナイトニッポン」を続けていくなかで、スタッフが喜ぶ顔を見れるのも僕らの特権なので、うれしかったですね。そんななか、僕らは、発言にも気をつけないといけないし、しっかりと曲も作らないといけない。そういうのが大変でしたね。「オールナイトニッポン」の放送が終わるのが夜中3時で、僕らはそのまますぐ帰って作業とかしていましたから。
ーー「オールナイトニッポン」ってリスナーからの投稿もきたり、企画もいろいろやりますよね。
そうですね。自分たちのやりたいことと制作側の考えの相違もありますし、なかには違和感を感じる企画もありました。
ーーそれはどんな?
ラジオドラマで、学生の役を演じるっていう。今なら楽しんでできるかもしれないんですけど、それがちょうど「ユビサキから世界を」を出すタイミングと重なって。「ユビサキから世界を」はメッセージを込めて作った曲で、当時学生の間に蔓延しかけていた自殺の話を絡めて行定監督が映画を作って、試写会で全国を回った。その夜に企画としてラジオドラマで学生の役をやるっていうことは、正直心がついていけなかった部分があった。終わったあとにすごくモヤモヤして眠れなかった、という思い出にもなっています。
ーーそれはつまり、アンダーグラフがオリコン入りしたことによってある意味環境変化があったということ?
そうでしょうね。もちろん楽しんでできるものもありましたけど、そうでないものも出てきた。音楽をしっかりやっていればそれでいいんでしょうけどね。「オールナイトニッポン」はリスナーから何千通っていうメールが来るので、ちゃんとした事を伝えたいって思うんですけどなかなか難しかったり。もどかしい気持ちもありましたね。
ーーデビューしたての、1stから2ndの時期に、アーティストとして、発言で気をつけていたことはありますか?
「ツバサ」を聴いて勇気をもらったっていう手紙がいっぱい届いてて、それを読んで発言自体に責任を勝手に背負っていた部分がありました。
ーーそれがプレッシャーになったりは?
それは全然無いです。アンダーグラフっていうのはそういうバンドだし、聴いてくれる人の生きる助けになれればいいなっていうのがあった。テレビ出演で曲を短縮されるのも違和感を感じていた時期もありましたけど、いろいろ良い反応のコメントももらえたので、ちゃんとした音楽さえ作っていたら伝わるものは伝わるなって再確認できた。音楽とのギャップがあるイメージがついてしまうものは嫌だなっていう気持ちはありましたけど。
ーーレコード会社との関係に変化はありましたか?
よりよいかたちで作品を届けようという中で、色々な意見を交わしましたね。バンドを辞めたいって考えた時期も正直ありましたし。それでも続けようって思えたのは、お客さんが2人しかいない時とかからずっと苦労してやってきて、その手段がどうであれ、僕らの音楽を一回聴いてもらえたら大丈夫っていう想いが芽生えてきた。
ーー「オールナイトニッポン」は、2ndを作るなかで重要なキーワードなんですね。
そうですね、「オールナイトニッポン」で初めて僕らの音楽を聴いた人もたくさんいると思うし。一年間、毎週同じように大きな番組をやるっていうのは、こんなに大変なんだなって。たくさんの関係者の人も聴いてくれていろいろな意見をくれるんですけど、それでパンクしそうな時もありましたし。今なら全然大丈夫なんですけど、その時はなんでも全部まともに受けちゃってたんですよね。
“明るさ” を目指した2ndアルバム
ーーそして2ndアルバムの『素晴らしき日常』に繋がると。2ndアルバムはどんなものでしたか?
色々と重なってきている時期の製作だったので、自分への応援歌みたいなものが何曲か入ってます。ジャケットも含めてすごく明るいものにしたくて、聴いてくれるみんなに明るくなって欲しいっていうイメージが強かったですね。僕らのライヴに来てくれればみんなの日常をもっと明るいものにできるよ、っていうイメージで当時はやってたので。あとはロック・バンドっていう括りから脱却したいっていうのもありました。元々僕らは自分たちがロックだとは思ってなかったし、もう少し肩の力を抜いたアルバム・タイトルだったり曲だったりっていうのを出したいなって。
ーー音楽的な面で言うと、1stアルバムの『ゼロへの調和』は勢いで作ったとおっしゃっていましたが、『素晴らしき日常』もストックしていた曲で作ったんですか?
いや、ほとんど全部新曲です。「ツバサ」っていう曲をみんなに聴いてもらって、そこからどういうものが歌いたいのか、どんな場所でみんなと共感し合えるのかを探し出したのは『素晴らしき日常』だったかもしれないですね。「ツバサ」を聴いてくれた人達が、さらに前に進むことができるようなものをっていうイメージが強かったですし、もっと人にすばらしいものを見せれるんじゃないかとか、10年後20年後にも聴いてもらえるようなものを作れるんじゃないかとか、壮大なイメージでしたね。
ーー大ヒットした「ツバサ」の呪縛っていうのは無かったんですか?
それは無かったんですけど、今振り返ってみると「ツバサ」は自分達のために歌った曲でありながらお客さんのためにっていう気持ちも強い曲で、ライヴに来てくれる子にもマジメな子が多かった。その子たちに伝えていこうっていうイメージを強く作ったって感じです。
ーーそれは今とは違う感じですか?
違うかもしれないです。自分たちのやりたいことを詰め込んだっていう観点からすると『ゼロへの調和』は一番遠いアルバムかな。みんなに聴いてもらうために作ったので、提案の曲が多かったりとか、聴いてくれる人へのカウンセリングみたいなものが入ってたりとか。
“本物” をめざして
ーー2ndアルバムを出して、その次に真戸原さん自身はなにをめざしたんですか?
どこまで音楽を作り続けていけるかっていうところですね。新しい道に進むためにはなにをしたらいいのかなって、誰よりも焦っていたと思います。ひたすら曲を作って周りにプレゼンし続けてました。でも様々な構想や意図を熟考していたこともあって、なかなかリリースの日程が決まっていかなかった。なので自分達主導で、レコーディングして曲を溜めていってました。いつでも次の作品を出せるようにって。そして1曲、自分たちの”ふるさと”についての曲を作ることになって、「また帰るから」って曲をレコーディングして、会場の方に配ったりして。そのときは、ガラッと変わって明るいものを出したいっていうイメージがあったので、「ピース・アンテナ」っていう曲と両A面にしたんですけど、あの時は、どっちの曲をシングルにするかっていうのでレーベルと随分話し合いをしました。結局、両A面になったんですけど。
ーー曲数はどんどん増えていったんですか?
それができない時期もあったんですよ。『素晴らしき日常』が終わってから、何を書いていいか分からなくなって。アンダーグラフの芯というものが分からなくなって、自分の事を書いていいのか、アンダーグラフというバンドの事を書いていいのか、よく分からなくなったんです。
ーーその時期が作ってくれたものはありましたか?
その時は完全に自信を失って、どうしたらいいかわからないなかで、「また帰るから」を自分たちでレコーディングして。それがちゃんとできたことで、どんどん曲を作ってやっていくことを再認識しました。
ーー2ndアルバムあたりから、来場者限定のダウンロードとか、ロンドンにレコーディングに行ったりとか、活動が広がった感じがします。
そうですね。僕が飽き性なのかもしれないんですけど(笑)、ずっと同じところにいるよりも、動いてみたほうがいいなって感覚でした。アレンジも含めて、ある意味でロック・バンドっていうものから一線を置きたいっていうイメージでしたね。
ーーそれはどうして?
ライヴ自体をもっと幅広い人が来てくれるようなところでやってみたいなって思っていました。
ーー具体的に、この頃はどういう風になりたかったんですか?
新たなアンダーグラフを作りたいっていう気持ちに駆られてました。作品に関して、本物になりたいっていう気持ちが強くて。テレビの影響で売れたとか、企画バンドだとか言われてすごく傷ついたときがあって、周りにも、ちゃんと音楽やってるバンドだってことをわかって欲しかったし、レコーディングも、海外のやり方をちゃんと学んでみたいという気持ちでした。海外のエンジニアの方に、「君たちは本物のミュージシャンだよ」って言ってもらえて、それは本当にうれしかった。
ーー当時、指針となったバンドはいますか?
ミュージシャンから、あのバンドいいなあって言われるようになりたかった。そこから広がって、関係者にも褒めてもらえれば幸せだなって。「ツバサ」で一気に有名になったので、「君らはまったく苦労してない」って言われることもあったし、やっぱり周りから見たらそう思われるのかなって。それが悔しくて、さらにがむしゃらに、どんどん曲を作ってライヴもしていこう、っていう感じでした。
ーー当時、同時期に活動していたアーティストたちをどう認識していましたか?
シンガーの方のなかにはシングルを出すときに200曲集めたなかから一番良い1曲を選んで出す方もいると聞いて、つねにそのクオリティのものを出されたら到底かなわないなって考えていました。なので、せめて50曲作って1曲選んだら対抗できるかもしれない、つねに曲を書いてアレンジして、いいものを出し続けたなかで選ばないと勝てないよってメンバーと話していました。日本歌謡曲界と勝負しよう、っていうモードでしたね。
“時間” をコンセプトにした3rdアルバム
ーー3rdアルバムの『呼吸する時間』は、どういったアルバムですか?
ちゃんとしたコンセプトを、アーティストとして出したいって考えて作ったアルバムです。
ーーコンセプトとは?
自分たちが生きていく時間というものをテーマに、曲を並べて作りました。
ーーコンセプトを持ったアルバムにしようと思ったきっかけは?
1枚目と2枚目のアルバムは怒涛の流れのなかで作って、日常の中でできあがっていった曲を詰めたアルバムだった。今度はそうではなく、1枚のアルバムとして音楽作品を評価してほしいなって。僕もそういうアルバムが好きだったので、曲間とかも含めてちゃんと感じて欲しかったんです。
ーー3rdアルバムのプロデュースは誰が?
宅見将典さんという方です。インディーズ時代から僕らを知っている方で。本物になりたいし、本物だと思われたい、という気持ちで制作のお願いをしました。
ーー2ndアルバムを出した後は、なかなかリリース予定が立たなかったとおっしゃっていましたが、3rdアルバムを出す頃には状況は変わっていた?
アルバムをリリースするタイミングは決まっていたんですが、シングルはどの曲にするかぎりぎりまで練っていたという状況だったので、なだれ込むように発売したって感じですね。
ーーアンダーグラフの活動自体は止まらず?
僕ら自体はまったく止まることはなかったんですけど、リリース間隔が結構空いたりしたので、曲ばっかりが増えていって。
ーー大きいバンドになればなるほど身動きがとりづらくなったりもするんでしょうね。
そうですね、周りも慎重になっていたと思うし。よくスタッフとも話し合っていました。お客さんに対しても、「CD出せなくてごめんな」っていう思いが強かったし。
ーーそういった思いは3rdアルバムの時が一番強かった?
そうですね。僕らはつねにリリースをしたいっていう思いだったので、もどかしい気持ちもありました。
(2013年4月2日OTOTOYにてインタビュー)
次回「アンダーグラフ 14年間の軌跡」第四弾 完結篇へ続く。
2013年3月6日(水)配信開始 第一弾
「」produced by 藤井丈司
2013年4月10日(水)配信開始 第二弾
「」produced by 島田昌典
2013年5月8日(水)配信開始 第三弾
「Mother feat. MICRO(HOME MADE 家族)」produced by 根岸孝旨
2013年6月5日(水)配信開始 第四弾
「素敵な未来」produced by 常田真太郎(from スキマスイッチ)
LIVE INFORMATION
live tour 2013 summer
7月14日(日) @大阪 心斎橋JANUS
7月15日(月・祝) @名古屋 ell. FITS ALL
7月25日(木) @東京 CLUB QUATTRO
PROFILE
アンダーグラフ
1997年に真戸原直人(Vo,G)、阿佐亮介(Gt)、谷口奈穂子(Dr)を中心に、前身バンドを大阪で結成。1999年に中原一真(Ba)が加入し、アンダーグラフとしての活動をスタートさせる。大阪城公園でのストリート・ライヴをはじめ、関西を中心に活動する。2000年夏に拠点を東京に移し、都内のライヴ・ハウスに出演。2002年にシングル『hana-bira』をインディーズからリリースし、その力強く繊細なメロディが各方面から注目を集める。2004年9月にはシングル『ツバサ』でメジャー・デビュー。女優・長澤まさみが出演したPVと共に話題となり、ロング・ヒットを記録。2006年には彼らの曲を原作にした映画「ユビサキから世界を」が公開され、大きな話題を集める。その後も初の海外レコーディング&ライブの実施、SUMMER SONIC 07への出演など、精力的に活動。2010年にはベスト・アルバム『UNDER GRAPH』をリリースした。2012年3月に阿佐が脱退し、3人体制で活動を続けている。