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INTERVIEW : ドレスコーズ
『戀愛大全』を聴きはじめて、冒頭の“ナイトクロールライダー”にまず驚いた。ギターとスネアの深いリヴァーブ、シンセサイザーのシークェンス。その幻想的なサウンドは完全に、1980年代のUKロックを起源とするドリームポップ、シューゲイズと呼ばれるスタイルだ。しかも30年ほど前に日本でもヒットしたある曲にそっくり。これは「あえて」だな、と確信した。
これまでむしろ古典的なロックやポップスのスタイルを追求し、80年代以降のサウンドを拒絶してきた感があったドレスコーズが、なぜいま「そこ」に踏み込んだのか。資料を見ると「1曲1曲に物語が吹き込まれた『架空の短編映画』のサウンドトラック」とある。どうやらそのテーマと関係がありそうだ……との予断を胸に取材に臨んだが、志磨遼平が明かしてくれた経緯はちょっぴり意外な、しかし聞けばとても納得のいくものだった。
インタヴュー・文 : 高岡洋詞
写真 : 斎藤大嗣
「いつかこういう夏を過ごしたい」と思って、それなのに毎年、間に合わない
──“ナイトクロールライダー”や“エロイーズ” “惡い男”などに顕著ですが、リヴァーブの深さやシンセサイザーなど、モロにドリームポップ的な音像にちょっと驚きました。
志磨遼平(以下、志磨): たぶん直感的にそういうものが作りたかったんだと思います。「今回はドリームポップのアルバムを作ろう」と前もって決めていたわけではなく、今作りたい曲を集めたらこういうアルバムになった、という感じです。
──最初は直感だったんですね。
志磨:そうです。そして曲がある程度完成した段階で歌詞を書きはじめるのですが、今回は恋愛について、つまりラヴ・ソングばかりが入ったアルバムになるといいな、と思うようになりまして。そうやって恋愛にまつわるさまざまなストーリーを書いていくうち、「夏を舞台にした恋愛短編オムニバスとそのサウンドトラック」というような構想に途中からなっていったんですけど。さっきおっしゃっていただいた「ドリームポップ的音像」にこじつけて考えるならば、夏というのは本来、お祭りだとか花火大会だとかバカンスで海外旅行だとかいった催しが目白押しだったわけですよね。ところがコロナ禍のおかげで、この3年ぐらい、ぼくたちはそういった理想の夏を謳歌することがかなわなかった。今年はところによっては多少あったと聞きますが、まあ、ここしばらくはそんな退屈にいじらしく素直に耐えてきたわけですよね。
──健気にマスクもつけてね。
志磨:そうそう。で、深いリヴァーブやシンセサイザーの響きといったドリーミーな音像っていうのは、そういった自分たちの頭のなかだけにある、いつかどこかで見たような空想上の夏のイメージにピッタリなのかもしれなくて……いや、でもそれって、実はいまにはじまった話でもないような気もしてきました。
──というのは?
志磨:3年以上前のことを思い出してみるとですね、ぼくたちはわーっと夏を謳歌していても、どこか「こんなに楽しい夏ももう終わるな」とか「夏が終わる前になにかしないとな」なんて言ってね、胸を痛めていたような気がするんです。そういう焦燥感ってあんまり他の季節にはないじゃないですか。「ああ、秋が終わってしまう」とか。
──なるほど。「夏はこうするべき」というのが強いんですね、我々。
志磨:てことは、それぞれになにかしら「理想の夏」みたいなものがあって、それは映画で見たものか、過去に体験した夏かわかりませんが、どこかそういう……ただカンカン照りの下にいても、それが自分の夏のすべてではないっていうような。その「理想の夏」をつかもうとして焦るわけですよね。「あ、まだ海に行ってない」「花火もしてない」とか。
──確かに、不思議と焦りがちですね(笑)。
志磨:そういうおぼろげな「理想の夏」があって、加えてぼくが夏に聞きたくなるような音楽っていうのも、どこかちょっとおぼろげな感じのものが多いんですね。だから歌詞を当てはめていくときにもあんまり齟齬がなかったし、夏をテーマに自分がアルバムを作るとしたらやっぱりこうなるよな、と。それはこの3年間、ぼくたちが夏にどこにも行けなかったことと関係しているようで、実はしていなかった気もするという。
──コロナ禍の行動制限で不自由な夏を過ごしているように思っているけど、実はそもそもこうだったんじゃないかと。
志磨:夏はいつだって不自由だ、ということです。映画や小説やマンガなんかを見て「いつかこういう夏を過ごしたい」と思って、それなのに毎年、間に合わないんですよ。
──志磨さんにとって夏とは「間に合わない」ものなんですね。
志磨:そうなんです。このアルバムも10月に出るっていうのが、実にぼくっぽいなって思いました。7月ぐらいに出てたらとってもよかったんですけどね。まあ、これを夏に聴くのは来年に持ち越して。
──勘みたいなものではじまったにしても、こじつけっぽくもなく、きれいに辻褄が合っている感じがします。
志磨:辻褄合わせはぼくの特技なので(笑)。
──歌詞をあとから書くと言っていましたが、曲調や音像に導かれるように素直に言葉が出てきた感じですか?
志磨:ここ何枚かのアルバムは、時代的、社会的にどうしても取り上げたいテーマがすごくはっきりとあったので、それを10曲とか11曲かけて取りこぼすことなく書いていく、という作り方でした。大喜利じゃないですけど、ひとつのテーマをおもしろおかしくいろんな角度から解いていくみたいな。例えば昨年の『バイエル』だったら、ぼくらが緊急事態宣言をうけて突然家から出れなくなって、誰にも会えなくなったことで、「この状況からどういう音楽が生まれるでしょうか?」というお題だととらえるわけですね。で、ぼくなりの解として「今は ふれないで/今は 話さないで/はなれたままで そこにいて」っていうソーシャル・ディスタンスを守ったラヴ・ソング(“はなれている”)を書いてみたり(笑)。今回はそれとは真逆で、みんなが抱いている夏のイメージになるべく重なる言葉を選ぶ、ひねったりトンチを効かせたりせずに、みんなの答えと同じ最適解を出すような感じっていうんですかね。とてもポップス的な作り方だったと思います。だから音像も対照的になりましたね。『バイエル』が写実的なスケッチだとしたら、今回は抽象画ですね。色彩も豊かですし。
──ジャケットの色合いも対照的ですし、2021年の日本ならではの少なからず時事的なアルバムだった『バイエル』と、空想のなかの夏を描いた『戀愛大全』は、表裏一体の関係にあるようにも見えます。リアリティとの向き合い方が正反対というか。
志磨:なんとなくいまは、この鬱屈とした状況を音楽にしたいとは思えなかったんですね。この息苦しさがなんなのか、はっきりと答えがわからないから。世界規模のパンデミックって、いま生きてる誰も経験したことのないものだし、まさに「新型」ウィルスだし、いったいどうオチがつくのかわからなくて、みんな右往左往じゃないですか。わからないものは怖いから、どうしてもわかりたい。「これが効くらしい」とか「いやいや、本当に効くのはこれだ」とか、とにかく危ういことが起きてますよね。で、異なる意見に疑心暗鬼になって、反対派を排除するような動きも出てくる。
──他人が急に怖い存在になりましたよね。
志磨:それこそコロナ禍の前も同じでしたよね。政治的な主義主張が食い違えば、なになに派と反なになに派とか、右とか左とか、やけにはっきりと二極化されるようになり。でもぼくは、「じゃあ自分はなになに派の立場で音楽を作ろう」っていうことはしたくないんです。
──ああ、それはわかります。
志磨:2020年の4月に最初の緊急事態宣言が出て、あらゆる人がいったん予定を白紙に戻さざるを得なくなりましたよね。かといってどこか遊びに行くこともできなくて、ただ空白の時間ができてしまった。お金持ちもお金のない人も平等に、みんなが不便になったあの感じを、ぼくは悪く思わなかったんです。その感じを音楽にしたいと思ってできたのが『バイエル』でした。で、それから1年が経って、今回歌いたいのはもうコロナのことではなくって、かといってこの状況を無視するのも違うし……と考えたんですけど、物事を右と左に分けたところからこぼれるものを拾うのが、自分がやるべきことだと思ってるんですね、ぼくは。「こんな大変なときになにしてんの!」と言われてしまうような(笑)。
──「これが落ち着いてからにしてくれる?」とかね。
志磨:ぼくは学生のときに、音楽でもマンガでも、みんなが「あれいいよね」「これいいよね」って言ってるものじゃなくて、自分だけが気に入ってて、みんなに「なにそれ? 変なの」って言われるようなものに救われて、幸せに過ごせたんです。だから自分が作るものもそうでありたいとずっと思ってて。