NEWFOLKが提示する“フォーク・ソングらしさ” | Text By 井草七海
こと日本においては、“フォーク”と“フォーク・ソング”では、その言葉から想起されるイメージが異なることが多い。特に後者には日本の70年代の“四畳半フォーク”的な、じめじめと貧しく哀愁を帯びた“うた“としての印象がつきまとうわけだが、〈NEWFOLK〉というレーベル名はまさにそうしたイメージを払拭すべくつけられたのだそう。言われてみると、その由来には確かに納得させられる。荒削りなロック・バンドかと思いきやシュガー・ベイブさえ思わせるコード・ワークを忍ばせる台風クラブ、宅録ながら超絶テクのギターと良質なメロディ、ドラマティックなアレンジで聴き手を引き込む田中ヤコブ(家主)などがそのいい例で、レーベルを代表するアーティストたちの音楽は、少なくともフォーク・ソングの“じめじめ”とした印象を吹き飛ばす活きのいい歌モノばかりだ。だがその一方で、筆者はこの〈NEWFOLK〉こそ、むしろ他のどのレーベル / シーンよりも、“フォーク・ソングらしさ”を色濃く受け継いでいるようにも思うのである。
結論を先取りしてしまおう。〈NEWFOLK〉のアーティストたちの音楽にはいずれも、日常の風景に自らの些細な悩みやふと去来する気分を重ね、その中で産み落とされた所在なげな言葉が並べられている。そしてそこに紡がれた言葉から、歌い手自身の生活の香りが漂ってくるのである。レーベルの直近作を見てみよう。例えば、ラッキーオールドサンの「母の日」。<公営団地>といった言葉を用いてなんでもない生活の風景が描き出されているわけだが、そうした具体的な描写こそが<大人の話や / 未来がどうなってるとか>などと子どもと大人の間で揺れ動く主人公に、聴き手自身を投影しやすくしてくれている。レーベルのニュー・カマー=わがつまのアルバム『第1集』にも、似たような構造を見て取れる。童女のような歌声で、主人公のどこか満ち足りない感情が淡々とつぶやかれていく今作。その言葉の連なりは夢うつつな心象風景のようでいて、突如として<ホテルの朝食>といった具体的な景色を突きつけることで、一気に聴き手の現実の生活にも接続してくるのである。
前者は抜けのいいアコースティック・サウンド。後者は宅録・打ち込みによるコンパクトな音像。アーティストごとの音楽性自体には幅がある〈NEWFOLK〉だが、彼ら・彼女らの描く音楽と言葉はいずれも、私たちが生活の中で覚えてしまう“心の隙間”の声を、等身大で表現している。それは“四畳半フォーク”のもつ哀愁の形とも似ている……それどころか、その核の部分をそのまま受け継いだ“うた“たちだと言えるのではないだろうか。生活の中の所在なさを聴き手と共有するということ。「なんでもない生活」が簡単に脅かされてしまう今、〈NEWFOLK〉から聴こえてくる音楽は、そのやる瀬無い気持ちになによりも寄り添ってくれることだろう。
井草七海
東京都出身。2016年ごろからオトトイの学校「岡村詩野ライター講座」に参加、現在は各所にてディスクレビュー、ライナーノーツなどの執筆を行なっています。音楽メディア《TURN》にてレギュラーライターおよび編集も担当中。