第ニ弾 メジャー・デビュー篇
念願のメジャーへ
ーーメジャー・デビューは、やはり念願でしたか?
やっとプロポーズしてもらったみたいな感じです。「どんだけ待ったんやろ?」って。決まったときは本当に嬉しくて、友達みんなに言いました。
ーー真戸原さんの親もサポートしてくれたんですか?
「やりたいならしゃあないな」みたいな感じでしたね。谷口奈穂子(Dr)が女性なので、ちゃんと親に挨拶したりもして、心配はかけないようにしていました。
ーーメジャー・デビューするっていう時は、自分たちで契約を結んだりしたんですか?
いえいえ、全然何もしてないです。「決まったよー。何月くらいにリリースするね。」って言われたくらいですね。メジャー・デビューするかしないかっていう波が何回もあって、友達に報告しては「ごめん、違った」って言っていたんです。レコーディングに入ったくらいの時に、今回は本当に出せるんだって確信できました。
ーーその頃は、東京ではどこでライヴをしてたんですか?
高田馬場CLUB PHASEです。対バンもメジャー・アーティストになるので、不思議な感じでしたね。友達のバンドとよく話すことですけど、メジャー・デビューすると何かがぎゅって上がる。なんでか分からないんですが、単純にお客さんも増えるんですよね。
ーーどれくらい増えたんですか?
50人が100人ちょっとになるとか。普通にやっていただけなのに、いきなりなんで? って複雑な気持ちでしたね。それと同時にCDは500枚しか無かったので、配るCDが足りないって言われたりもして。メジャーって何やよく分からんなって。12月くらいに、レコード会社の人に「キャンペーンで1月はずっと全国回ります」って言われて、キャンペーンには僕だけが行きました。そのキャンペーンの後1月2月をむかえた時ぐらいにオリコンで50位越えたくらいですね。
ーー当時のオリコンで50位超えて、どんな感覚でしたか?
最初は186位やったんですけど、毎週上がっていって。でもそれがどういう事かも分かってないし、そういうもんやろみたいな。
変化していく環境
ーー1月にキャンペーンを回り出してからは、状況は変わりましたか? オリコンでは20週目くらいでしたね。
1か月で33都道府県を周ったんですけど、どこに行ってもラジオで自分たちの曲が流れてるし、急に環境が変わりすぎて意味が分からなかったですね。移動中に「2月の頭にミュージックステーションに出れるよ!」って言われて。
ーーミュージックステーションに出るってすごい事ですよね。
すごく嬉しかったですね。ひとつの目標だったので。
ーーオリコンTOP10入りした時にミュージックステーションに出演したんですよね?
そうです。最高6位かな。
ーーどんな気分でしたか?
当時周りも喜んでいてくれていた中で、その反面で自分たちは怖くて「次いつ、どの曲出すんすか!?」っていう気持ちもありました。そういう流れが来ている時ってみんながクリエイティヴだし、みんながアーティストって感じになってましたね。
ーー「君の声」とか、1stアルバムの『ゼロへの調和』を作っている時は、金銭面も含めて状況は随分変化していたでしょうね。オリコン6位の最中、どんな生活でしたか?
でも、「ユビサキから世界を」のデモを作ってる頃までは、メンバーみんなで一緒に住んでました。そのデモを作り終わった、次の日に引っ越しをできるように仕込んでました(笑)。
ーーどんな気持ちでしたか?
うまく言えないですけど、メンバーに対しては、やっぱりついてきて良かったやろ? みたいな。同時についてきてくれてありがとうとも思いましたね。やっと、ミュージシャンですって胸張って言えるなって。
ーーメジャー・デビューが2004年の9月で、引っ越しは2006年の6月ですよね。デビューから5枚もシングルをリリースしているのに。
音楽で生活していくのには、それくらい時間がかかりましたね。そこからは音楽活動に集中できるようになったので、嬉しかったですね。
ーー音源が売れていく中で、ライヴはどういう風に変わっていきましたか?
いきなりライヴ・ハウスが満員になったりもしたので、曲を聴いてくれてライヴが見たいって人がたくさん増えたんですね。それからは普通にホール・ライヴをしたりとか。どんどん規模が大きくなっていきましたね。
ーー最初に渋谷QUATTROでやって、AXでやって、次はホールで、とかですか?
そんな感じですね。でも僕ら的には、ずっとそれが続くことはないだろうなっていうのはあった。
ーーなぜそう思ったんですか?
うまく言えないけど感覚的に。みんなで浮かれることなく与えられたもので頑張ろうって感じでしたね。
伝える、ということの責任
ーー音源が売れるっていうことを体験して、次の活動にはどう繋げていったんですか?
浮かれるってことは一切無くて、売れることへの責任を感じるようになったんですよね。Mステ出る時も、曲を短くされるのがすごく嫌だったりしたんですけど、番組を見ていた中学生が僕らの曲を聴いて学校に行けるようになった、といった話を聞いて、すごく影響を与えたんだなって思うと、この子たちを裏切るようなことはできないなって。一か月に取材が100誌あっても、後悔しないように一個一個手を抜かずに全部ちゃんと伝えたし、一曲書くのにも、次はその子達に何を伝えたらいいんだろうって考えたり。
ーーひらかたパーク(大阪の枚方公園にある遊園地)でのカウント・ダウン・ライヴとかもありましたよね。
あれは年末何やろうかってなった時に、地元帰ろうかっていう話になって。デビューして1年半くらい経った頃だったのでみんな疲れていたと思うし、地元に戻って何かやりたいなって思ったんです。
ーー1年半~2年くらいの時はとにかく激動でしたか?
どんどん新しい作品を出したいって思っていました。「ツバサ」と同じくらいみんなに好きになってもらえる曲を、なるべく早く出したいっていうのが強かったです。聴いてくれる人の声を聞きつつ、なるべく軸はぶれないように意識していましたね。
ーー真戸原さんの思う「バンドの軸」というのは?
言葉を大切にしながら、10年後もちゃんと聴いてもらえるようなものを作って、人生を器用に生きることができていない人の背中を押してあげられるようなバンドになるっていうことですね。
ーーその軸は結成当初からずっと見えていたものなんですか?
そうですね、メンバーに器用じゃない奴が多いので。例えば、「真面目過ぎる君へ」はベースの中原に向けて書いた曲だったりするんです。でも、そんな曲をいいなって言ってくれる人がいたので、じゃあ同じように生きにくいと思ってる人もいるだろうなって。あとは、ライヴ・ハウスに来たことがないような人にも、ちゃんと聴いてもらえるようなバンドでありたいとはずっと思っていました。
ーーメジャー・デビューしてから2、3年の間で印象に残っていることはありますか?
手元から少しずつでも、何か変えられるよってことを伝えたくて「ユビサキから世界を」を作ったんです。元々シングルにするつもりも無かったんですけど、フォー・ライフ・レコードがその考え方をすごく気に入ってくれて、行定(勲)監督に映画を作ってもらった。そして、名古屋での試写会で、中学生くらいの男の子から「今戦争が起きたらどうしますか?」っていう質問があったんです。
ーーどう答えたんですか?
僕は、こんな状況の中で戦争を起こすような国にいたくないですって意味で「逃げます」って言ったんですよ。そしたらその少年はすごく悲しそうな顔をした。その顔をすごく覚えてますね。その少年は僕に夢を描いて、この人だったらどういう考え方をするんだろうっていうのが聞きたかったんだと思うんですよ。彼にとっては欲しくなかった答えだっただろうし、うまく答えられなくてすごく申し訳なかった。その時に初めて、ミュージシャンとして責任を持って言葉を発さなきゃいけないし、曲も責任を持って作らないといけないなって思いました。
(2013年3月4日OTOTOYにてインタビュー)
次回「アンダーグラフ 14年間の軌跡」第三弾へ続く。
2013年3月6日(水)配信開始 第一弾「」produced by 藤井丈司
2013年4月10日(水)配信開始 第二弾「」produced by 島田昌典
2013年5月8日(水)配信開始 第三弾「Mother feat. MICRO(HOME MADE 家族)」produced by 根岸孝旨
2013年6月5日(水)配信開始 第四弾「素敵な未来」produced by 常田真太郎(from スキマスイッチ)
LIVE INFORMATION
live tour 2013 summer
7月14日(日) @大阪 心斎橋JANUS
7月15日(月・祝) @名古屋 ell. FITS ALL
7月25日(木) @東京 CLUB QUATTRO
PROFILE
アンダーグラフ
1997年に真戸原直人(Vo,G)、阿佐亮介(Gt)、谷口奈穂子(Dr)を中心に、前身バンドを大阪で結成。1999年に中原一真(Ba)が加入し、アンダーグラフとしての活動をスタートさせる。大阪城公園でのストリート・ライヴをはじめ、関西を中心に活動する。2000年夏に拠点を東京に移し、都内のライヴ・ハウスに出演。2002年にシングル『hana-bira』をインディーズからリリースし、その力強く繊細なメロディが各方面から注目を集める。2004年9月にはシングル『ツバサ』でメジャー・デビュー。女優・長澤まさみが出演したPVと共に話題となり、ロング・ヒットを記録。2006年には彼らの曲を原作にした映画「ユビサキから世界を」が公開され、大きな話題を集める。その後も初の海外レコーディング&ライブの実施、SUMMER SONIC 07への出演など、精力的に活動。2010年にはベスト・アルバム『UNDER GRAPH』をリリースした。2012年3月に阿佐が脱退し、3人体制で活動を続けている。