
8.15 世界同時多発フェスティバルFUKUSHIMA! @福島市 四季の里&あづま球場
原発事故という不名誉な形で世界中にその名を知られることになった福島。その「FUKUSHIMA」という名前を再びポジティヴな意味に転化していく最初の一歩として開催されることになったのが、この「世界同時多発フェスティバルFUKUSHIMA!」だ。開催決定からわずか4カ月ほどの短い準備期間を経て、いまいち全貌が見えてこないまま当日を迎えたこのフェスティバルに、県内で生まれ育った筆者は期待感とはまた別のなんとなく落ち着かない気持ちを抱えたまま、二本松市内にある実家から父の運転で向かうことになった。
到着したのはオープンとほぼ同時刻。メイン会場のひとつである<四季の里>には既にいくつもの出店が並んでいる。会場全体に大風呂敷を敷く準備が始まったことを見届けてから、友人と会場近くのコンビニに寄ると、店内を飛び交うおにやんまに一部が騒然としているところだった。入場料もなければ整理券も配られていないこのフェスティバルは、どの程度の集客が見込めるのかも未知で、とりわけ県外からどれだけの人がやってくるのは気がかりだった。しかし地元の人間からすれば標準サイズのおにやんまにビビりまくる彼らは、まず間違いなく他の地域から足を運んできた者だろう。自分が少しほっとしていることに気づきながら、会場に戻る。

敷地内の芝生は既にほぼ全面が様々な柄のパッチワークで覆われていた。全国各地から寄せられた色とりどりの布地を縫い合わせたこの総面積約6000㎡の大風呂敷は、瞬く間に<四季の里>をお祭りムードに染め上げた。繋ぎ合わされたひとつひとつの風呂敷を見ていくと、福島に向けてのメッセージが添えられたものがいくつも見つかる。表面汚染を防ぐために生まれたこの「福島大風呂敷」は、全国各地の思いを福島に集め、縫い合わされ、来場した人々の手によって広げられ、<四季の里>を美しく彩っていた。代表のひとりである大友良英が後日このフェスティバルを「風呂敷を縫うようにしてできたフェスだった」と振り返ったように、会場全体に広がった大風呂敷は、まさにこの『世界同時多発フェスティバルFUKUSHIMA!』の象徴だったと思う。
11時を過ぎると会場のいたる所からいくつもの音色が聞こえ始める。「音楽解放区」となった<四季の里>で県の内外から集まったミュージシャン達が、弾き語りはもちろん、バンド演奏、あるいは合唱やダンスといった思い思いのパフォーマンスを始めたのだ。少し前まではどういう気構えで臨んでいいのかわからなったフェスが、この「音楽解放区」によってまさに解き放たれた瞬間だった。一気に会場全体がピースフルな雰囲気で包まれていく。しかし、「音楽解放区」が始まってからまだ1時間も経ったかというところで、会場は突然のスコールに襲われる。来場者はもちろん、それまで各所で音を鳴らしていた者達も慌てて雨がよけられる場所に駆け込んでいき、それまで賑やかだった大風呂敷の上にはほとんど人がいなくなってしまう。雨上がりを待つテントの下で、ギターを手に歌い出す者が現れ始めた。雨宿りの狭い空間で歌われれば、当然ながら歌はよりダイレクトに聴こえてくる。逃げ込んだテントの下でたまたま耳にしたそれはやはり福島の現状を歌ったもので、それをぼんやりと聞きながら周囲の人々と会話を交わしている間に、雨はあがっていた。あのまま雨が降り続けていたらイベントの進行はどうなっていたのか、今となってはわからないが、あの雨宿りの下で交わされたいくつものコミュニケーションは、その後のフェスのムードを決定づけるとても重要なものだったと思う。

一気に晴れ渡った空の下で、「オーケストラFUKUSHIMA!」の準備が始まる。一般公募によって集まったのが200人強。それに当日になって参加した者を加えると果たして何人がこのオーケストラに参加したのか、正式な数は定かではないが、その中にはこれから出演を控えたプロのミュージシャン達の姿も多く見える。子供から老人までがそれぞれ持ってきた楽器を手に指示を待つ中、指揮者の大友が登場。彼が指した者からひとりずつ音を出し始める。演奏は少女の弾くピアニカの音から始まった。そこからの演奏がどんなものだったかはとてもここでは表現しきれないが、数百人が大友の動きを見つめながら各々の音を出していく中で巻き起こる凄まじいダイナミクスに、見つめる者からは歓喜の声と拍手が上がり、中には涙を流している者もいた。
「オーケストラFUKUSHIMA!」の演奏が終わると、すぐに「福島群読会2011」の発表が始まる。大友、そして遠藤ミチロウと共にフェスの代表を務める詩人・和合亮一が中心となり、いまの福島を語った言葉をいくつも繋ぎ合わせた連詩が、何人もの声で発せられていく。その声には聴衆に3月11日から時が止まったままの福島を改めて突き付けてくるような辛辣さがあった。オーケストラにあったのが喜びと興奮だとしたら、この群読会にあったのは怒り、悲しみ、そして未だに止まない混乱だった。

このあとはもうひとつのメイン会場である<あづま球場>も含めた3つのステージで、いくつもの壮絶なライヴ・パフォーマンスが展開されていった。やはりここからのプログラムに標準を合わせて来場した人は多かったようで、会場内の人口密度も明らかに高くなったし、実際に観ていないので定かではないが、恐らくUSTREAMの視聴者数もその辺りから増えていったのではないかと思う(翌日の発表によると、来場者数は両メイン会場を合わせてのべ約13,000人、USTREAMの最大瞬間視聴者数は6,541人だったそうだ)。
『フェスティバルFUKUSHIMA!』の本質的な部分は、<四季の里>に広げられた大風呂敷、そして「オーケストラFUKUSHIMA!」と「福島郡読会2011」というふたつのプログラムに集約されていたように感じたが、このあとに行われたアーティスト達の演奏はどれもが本当に素晴らしいものだった。それはそうだ。彼らはみな、アーティストとしていまの福島で表現すべきものを見つけ出し、それぞれの覚悟を決めて、自らの足でこの会場まで駆け付けているのだ。あるいは、彼らの鬼気迫るパフォーマンスは福島という場所が引き出したものとも言えるだろう。それは県内外からの来場者にしてもそうで、大雨に打たれ、大風呂敷の上で寝転び、いくつものパフォーマンスを目の前にしてそれぞれが感じたものは、間違いなく福島という場所でしか得られないものだったと思う。

また、この日はアーティストのパフォーマンス以外に、放射線衛生学者・木村真三博士の調査報告会も行われた。音楽や詩といった文化的な側面から原発事故以降の福島と向き合おうというこのフェスティバルに、科学者である彼が全面的に関わったことはとても大きかった。彼が会場内の線量測定に立ち会い、表面被爆への対策として大風呂敷を提案したことは、ノイズ・ミュージシャン、詩人、そしてパンク・ロッカーという一見ばらばらに思える3人の呼びかけから始まった今回のプロジェクトに強い説得力と具体性を与えていたと思う。この日、木村博士は舞台上でチェルノブイリでの体験を語り、除染を訴えたあと、自分はこれから福島に移住する予定だと聴衆に伝えていた。
今回のフェスティバルは県外にいまの福島を知らせる大きな機会になったし、県内から集まった者にとっては自分が福島の人間であることを再認識させられる瞬間が何度もあったのでないかと思う。そういえば会場内でたくさんの友人と再会した。「お前の家の辺りって、けっこう線量高いんじゃないの?」「そうだねー。そういや、あいつのことは知ってる? いま避難しているって聞いたんだけど」みたいな話をごく自然に交わす。世紀の大問題と自分の個人的な会話がいつの間にかごちゃ混ぜになっていることに少しだけ困惑しながらも、会場にいるすべての人がこの野外フェスティバルを通じて今の福島と真正面から向かい合っていることを全身で感じていた。終戦から66年目の8月15日。原発事故の地として知られたFUKUSHIMAは、日本のどこよりも先に3.11以降の新たな生き方を模索し始めていた。
(Text by 渡辺裕也)
(Photo by 佐々木亘)
ライヴ概要
日時 : 2011年8月15日(月)
会場 : 福島市 四季の里、あづま球場
入場料 : 無料
主催 : プロジェクトFUKUSHIMA!実行委員会
パート1 / 「福島大風呂敷」 (9:00~11:00 四季の里)
パート2 / 「福島音楽解放区」 (11:00~14:00 四季の里)
パート3 / 「オーケストラFUKUSHIMA! & 福島群読団2011」 (14:20~ 四季の里)
パート4 / 「メルトダウンFUKUSHIMA!」 (15:40~21:00 四季の里&あづま球場)
東京ボアダム×FUKUSHIMA! @秋葉原CLUB GOODMAN+STUDIO REVOLE
2011年8月15日20時過ぎ、オフィスのスピーカーからは福島で行われている本家「FUKUSHIMA!」の中継が流れていた。その中継にせかされながら、私も秋葉原GOODMAN+REVOLEで行われている「東京ボアダム×FUKUSHIMA!」に向かうべく仕事を片付けた。やっと会社を出る準備が整ったところで、七尾旅人の「Rollin’ Rollin’」が流れ始める。やけのはらのラップ部分を原田郁子が担当し、さらにそこに向井秀徳が続く。視覚的な情報がない分、その意外な人物の登場は突然だった。福島で今起こっていることを想像しつつ、これから全く別の場所で起こる同じ名のイベントへ向かうことに妙な感覚を覚えながらも、会社を出、電車に乗り、秋葉原へ足を速めた。
到着したのは21時過ぎ。16時よりオープンしていたので、ほとんどのバンドが出終わったところだった。人で溢れ返るGOODMANでは、演奏者の姿は見えないが何やらプロジェクターに映像が映っている。映像があるということは、yudayajazz+HIKOだ。yudayajazzが鳴らす黒く荒んだノイズに、ハードコア・バンド、GAUZEのドラマーであるHIKOの破壊的なドラムが重なる。着いてそうそうすごいものを見せられた。観客も、早くから飲んでいる風の人は踊り狂い、私と同様に着いたばかりの人は唖然と立ち尽くしていた。

そして地下のスタジオ、REVOLEへ移動。GROUDNCOVER. が時間を押して始まった。しかしこの部屋、人の密集度が尋常ではない。「破壊した後の喪失感と爽快感」が癖になるGROUNDCOVER. のライヴだが、暑さで私の感覚がまどろみはじめていたせいだろうか。この日のライヴはダウナー系のドラッグのような気味悪さを持っていた。彼らのライヴを半分ほど見終え、KIRIHITOのために再びGOODMANへ戻る。それほどモッシュが起こるバンドではないが、この日はステージ前に男たちが群がり大暴れしていた。前にKIRIHITOのライヴでモッシュを見たのはいつだったかと考えると、2009年の東京大学でのライヴ、それも東京ボアダムだった。東京ボアダムの客がモッシュを起こしやすいのか、KIRIHITOと東京ボアダムの相性がいいのか、その両方か。
そして最後の赤い疑惑のためにREVOLEへ戻る。しばし見て、しばし外で休憩し、またしばし見ては外へ出るを繰り返しながら彼らのライヴを楽しんだ。彼らのライヴを長時間見るのは私にとって少し辛いことなのだ。アクセル長尾が書く詞には不器用な大人がそのまま映し出されていて、聴きながらあまりにもやりきれない気分になる。長年のキャリアとは裏腹に、演奏はなかなか上手くならない。それでも多くの音楽ファンが彼らに求心するのは、彼らの音楽がそのまま彼らの生き様だからだろう。ドキュメンタリー映画を見ているようで目が離せないのだ。5分、たった5分のライヴを見れば、赤い疑惑の魅力の9割は知ることができる。残りの1割は、痛みに耐えながら彼らのライヴを最初から最後まで見たものにしか知ることができない。つまり、私はまだ赤い疑惑を十分に知ってはいない。
アクセル長尾が「戦争には負けた」と歌った。そこでやっと、今日が終戦記念日であることを思い出す。多くの人気のあるバンドが多数出るこのイベントで、なぜ彼らがトリを務めたのかわかった気がした。今年始まったばかりの「世界同時多発フェスティバルFUKUSHIMA!」。同時開催に挙手したイベントは世界各国から100近く。来年も行われるのだろうか? 一年経てば、原発問題は解決せずともその地域以外の者にとっては新鮮な話題ではなくなる。だからこそ、続けられなければならない。一端ではあるが、2011年に「世界同時多発フェスティバルFUKUSHIMA!」を目撃しておいてよかった。これからも続く「PROJECT FUKUSHIMA!」を追い続けて、来年には福島県で行われる「FUKUSHIMA!」に行きたいと強く思う。
(Text by 水嶋美和)
(Photo by タカミジュン )
ライヴ概要
日時 : 2011年8月15日(月)
会場 : 秋葉原 CLUB GOODMAN+STUDIO REVOLE
開場 / 開演 : 16:00 / 17:00
出演 : KIRIHITO、ECD RUMI&SKYFISH、BOSSSTON CRUIZING MANIA、Limited Express(has gone?)、GROUNDCOVER.、L?K?O、TACOBONDS、worst taste、MELT-BANANA、yudayajazz+HIKO、見汐麻衣、Alan Smithee's MAD Universe、日比谷カタン、平井正也全身バンド、赤い疑惑